年収200万円以下で働く人々

前進も後退もない。そんな概念が当てはまらないほどに、単純で、単調で、退屈で、反復的で、非クリエイティブで、でも、誰かがやらねばならない定型業務。

昨日と同じ今日、今日と同じ明日。目をつぶっていても、無難に過ぎていく日々。そんな判に押したような毎日にもいつしか慣れ、もはや疑問も不満も、不安さえも感じなくなった、麻痺した神経。程度に差はあれ、サラリーマンなら誰でも身に覚えがあるだろう。

わたし自身、20年ちかくサラリーマンをやってきて、そんな感覚に陥ることがある。良く言えば、角がとれて丸くなった、落ち着いた。悪く言えば、あきらめた。

真剣に人生に向き合うのが面倒くさい。面倒くさいことは後回し。逃げろ、逃げろ。定年まであと20年。このままいって何が悪い。普通にやっていればクビになることはまずないし、普通に生きていくだけなら、たぶん、逃げ切れる。長いものには巻かれろ。しかし、そんな茹でガエル的なサラリーマン人生は、時に耐えがたくなる。

時々、サラリーマンという生き方を肯定する労働小説を読みたくなる。そんな時まっさきに思い出すのが、津村記久子だ。

津村記久子。

ポトスライムの舟 で第140回芥川賞を受賞したこの人物は、長く会社員と作家で二足のわらじをやっていた。会社員といっても、正社員ではなく、恐らく、非正規。彼女の作品から推測するに、臨時雇いとして職場は変わるものの、基本的には単純で作業的な反復業務を、薄給(はっきゅう)で行っていたと思われる。

原理的に、物書きは自分のなかにあることしか書けない。日本の平均的な家庭に生まれ育ち、凡庸な仕事につき、真面目に生きてきた彼女にとって、作家として書けることは、自身の誠実な労働経験しかない。その唯一の鉱山を丹念に掘り起こしつつ、組織の、それもかなり末端的な業務を黙々とこなす働く人の日常を描き続けた結果の、芥川賞。

これ以上ないくらいに平凡で、まともで、真面目な人が、芥川。このことは、芥川賞は何も、海外を放浪したり、倒産したり、離婚したりしなくとも、誰にでもとれる可能性があることを示唆する。昼間は会社で働き、夜はそれを文章に書き起こす。ある意味、家庭の主婦が日々の食事をブログにアップするようなものだが、彼女はそれを別の次元でやっていた。効率と継続と安定。サラリーマンの本領発揮と言えよう。

そんな彼女の最新作が、エヴリシング・フロウズ だ。

予想に反し、この作品は労働小説ではなかった。むしろ労働とはまったく無関係の、中学生の生態を描いた、いわゆる青春小説。10代半ばの少年少女たちが、それぞれにおかれた家庭環境で、何を考え、何に悩み、どう行動したか。作者自身の思春期を思い出しながら描いたものと思われるが、やはり津村記久子らしさにあふれていた。

この人は、日常の何でもない些細な出来事を題材にするのがうまい。どこにでも見られる普遍的な風景、心の原風景、誰にでも身に覚えのある感覚、微妙な感情の揺れなど。このように、著者が目を向けている対象は、謂わば昭和的だが、そこには汗や涙に代表される昭和的な「熱さ」はない。かわりに、悪意のないユーモアが添えられ、全体として、平成的な脱力感がある。

昭和の懐かしさと平成の斬新さを融合した、シュールさ。
それが、津村文学といえるかも知れない。

この作家は、どんな題材でも、丁寧な仕事でこつこつ書き上げていくのだろう。会社員時代、組織ピラミッドの底辺で冴えない業務をこつこつ真面目にこなしてきたように。この人は、平凡な素材から、絶妙な「おふくろの味」を再現する主婦のようだ。そして料理が上手くても、カリスマシェフを目指そうとはしないだろう。

ホームランは狙わない。ヒットも狙わない。バントすら試みない。ただバッターボックスに立つこと、いや、試合に出る行為そのものを、丁寧に、丹念に書き綴る。決して派手ではないが、抜群の安定感で、普通の人々の普通の生活を、坦々と綴る。津村記久子の次の作品にも期待したい。



posted by ヒロミシュラン at 12:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心に残る小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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