終わった人 ―定年退職を迎えたサラリーマンたち

終わった人

ナイスなタイトルである。思わず手が伸びてしまう。さすが内館牧子、上手い。

終わった人とは、定年を迎えたサラリーマン全般を指す。大学卒業後、20代そこそこの若さで会社に入り、そのまま60歳の定年まで会社いっぽんできてしまった人。心理的にも、物理的にも、何の準備もなく、能天気に自由の身になってしまった人。学校や会社というくびきから解き放たれ、悠々自適な人生が待っているはずの人。

都市部で働く人といえば、ほぼサラリーマンと相場が決まっている。毎日、「会社」とよばれる建物に集合し、何だか知らないが、朝から晩まで何かをやっている。それを40年間繰り返すことで、箸にも棒にもかかりそうにない普通の人が、生涯年収3億円、とかいう話になる。

わたし自身サラリーマンを20年ちかくやってきて、この摩訶不思議な現象を体験してきた。社名とその業種くらいしか知らないその会社で、入社したその月から、毎月決まった額のお金が銀行口座に振り込まれる。頭痛や腰痛などで、文字通り、会社へ行って座っているだけであってもだ。加えて、サラリーマンに対する金融機関の信頼は厚い。個人の資質は不問。これを奇跡と呼ばず、何と呼ぼう。

サラリーマン、素晴らしいシステム。

終わった人では、そんなサラリーマンの40年間の生態ではなく、その後の人生にスポットを当てている。しかし何だな、この小説もそうだが、たとえ救いようもない茹でガエルであっても、同じ会社に40年も通い続けられること自体、実は恐るべき偉業であることに気づいている人は少ない。40年間、毎日だ。卒倒しそうだ。

さて。

そんな偉業を成し遂げたサラリーマンには、年金という、死ぬまで支給を約束された収入がある。日本政府が破産したり、勤めていた企業が破綻しない限り、生涯入り続ける収入だ。さすがに国民年金だけでは辛いが、厚生年金、企業年金という、2階建て、3階建ての年金がある人は、そうとう余裕のある人生が遅れる。そんな人はたいてい持ち家があるから、めだった出費は食費と病院代くらい。左団扇とはまさにこのこと。

しかし人間、そんなに簡単な生き物ではない。60代、まだまだアタマもカラダも元気で、引退には早すぎる。第2の人生をフルにエンジョイ。そんな定年直後のサラリーマンがまず考えるのは、「とりあえず、奥さんとゆっくり旅行」。この都合のよ過ぎる提案は、まず通らない。奥さんには、奥さんの人生があり、そこにあなたの場所はない。

定年退職後の3ヶ月で、いや、早い人なら1ヶ月で、元サラリーマンたちは、今後死ぬまで、自分はひとりで「毎日が日曜日」を生きていかねばならぬ運命にあることを悟る。あり余る時間を、どう生きるか。サラリーマンが初めて直面する、想定外の人生の難題。

さぼることが楽しいのは、その間、給料が入り続けるから。気にかけてくれる上司や同僚がいるから。今日はさぼっても、明日になれば行くべき場所、会うべき人がいるから。酒は夜飲むものであって、昼から飲んでりゃただのアル中。盛り上がらないし、おいしくもない。一日中テレビ漬けなんてのも、毎日やってれば自己嫌悪に陥る。毎日やることといえば、3度の食事だけ。運動不足で太るし、いいことなし。

かといって、散歩や図書館で時間をつぶすのは、自ら「老人」であることを認めることになる。カルチャーセンターやスポーツジムは、最早シニアだらけ。こんなことなら65歳まで再雇用やっときゃよかった。後悔してももう遅い。ハローワークへいっても、シニア向けの募集は、限られた肉体労働、もしくは単純労働。そんな状況に絶望し、故郷へUターンしてみても、たいていは上手くいかない。故郷は遠くで思うもの。

定年退職後のサラリーマンにありそうな人生を、ここまで完璧に再現した小説は、ありそうでない。わたしの両親をみても、ほぼこの通りのシナリオを辿っている。あまりにも当たり過ぎて、ギャクかと思えるほどだ。父は団塊の世代末期に生まれ、妻と子2人を養い、東京の郊外にマイホームをもち、バブルとその後の失われた20年を経験した、サラリーマンの鏡。真面目の塊りのような人だが、定年後の罠にまんまと嵌った。今もまだ足掻いている。

悪いことは言わない。少なくとも、定年まで5年をきった50代のサラリーマンは、本小説を読み、今から心の準備をしておいたほうがいい。



なお、本作品、2年前にヒットした小説で、2018年には映画化されるらしい。主人公の「終わった人」は、舘ひろしが演じるという。

たぶん、面白い映画になるだろう。


posted by ヒロミシュラン at 12:06 | Comment(0) | 大爆笑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする