駄作か傑作か?夏目漱石の遺作、明暗のゆくえ

夏目漱石、最後の作品 明暗。本作執筆中に持病の胃潰瘍が悪化し、そのまま帰らぬ人となった。享年49歳。執筆中に死んでしまったのだから、当然、この作品は未完成である。

未完成の遺作と言えば、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟。主人公の「その後」が気になるということで、「著者の構想には「続編」があった」と解釈されており、生前の著者もそのようなことを漏らしていた。このような理由から「未完成」あつかいされているが、本作品はいちおう「完了」のカタチをとっており、中途半端さはない。

主要人物の「その後」が気になる小説といったら、風と共に去りぬが究極だ。世紀のお似合いカップルのはずだったスカーレットとレット・バトラーの破局。著者ミッチェルは、南北戦争に匹敵しうる壮大なストーリー展開を可能にするネタを十分に提供した上で、幕。この作家が主人公たちの「その後」をすべて読者の想像にたくし、物語をあそこで終了させたのは、神の判断。あれ以上に完璧なエンディングは考えられない。

かたや、漱石の明暗。ストーリーが進行している真っ最中に、いきなり「プツリ」と断絶。あたかも、「あー疲れた。今日はこのくらいにして銭湯でも行くかな」とか言いながら筆をおいたような感じで終了。さすがの漱石も、まさか自分がここであの世に逝くとは想定していなかったに違いない。

漱石はほぼ読破しているわたしでも、どう見ても中途半端なこの未完成作品には手をつけていなかった。しかし例のごとく会社があまりにも暇すぎて、時間をつぶすべく、件(くだん)の手法で明暗を読み始めた。漱石の長編のなかでも最長の部類に入る本作品だが、ほぼ1週間(5営業日)で完読。思った以上に、おもしろかった。

漱石の作品はどれもそうだが、物語の設定はほぼ定型化。男女間(もしくはその変形)のすれ違い。人生感や価値観の違いから、意志疎通できない人間の悲劇。客観的にみれば、死ぬ理由もその必要性も認められない、経済的にも社会的にも恵まれた立場にいる男が、発狂するか自殺するかの瀬戸際で苦しみ続けるという構図。「死に至る病」に犯された主人公の苦悩は、わからない人には一生わからない。

世の中には、考えても無駄なことが多い。若い頃は特にそうだ。世界には「27歳のジンクス」というのがあって、そのジンクスに殉じた人をひっくるめて「27クラブ」と呼ぶ。特に、才気あふれるロックスターに多く見られる現象だ。日本では、尾崎豊がそれにあたる。20代は悩み多き世代で、世の中に憂い、人生に悩み、将来に絶望し、それを忘れるためにドラッグやアルコールへ逃げる。そんなことを繰り返すうちに、だいたい27歳くらいで死んでしまう。

夏目漱石の本格小説家デビューは遅く、40過ぎてから。もはや中年真っただ中の漱石のテーマは、主にこの27歳のジンクスだ。悩んでもしょうがないことで悶々と悩み続ける主人公をつらつら書き連ねる漱石。精神衰弱のゆえんだ。漱石初期の作品に、吾輩は猫である 坊っちゃん がある。斬新な視点で、底抜けの明るさがあふれるこれら作品を書いていた頃、漱石はまだ30代だった。

猫や坊ちゃんはまだしも、後のいわゆる漱石文学と呼ばれる病んだ小説は「読むに及ばず」とスルーする人も多いと聞くが、わたしは病んだ漱石も嫌いではない。むしろ好んで読んでいる。普通なら悩まない、というか、問題の存在さえ気づかないような些細なことに目がいってしまい、損をしている。普通の人なら悩まないところを悩む人間は馬鹿だ。漱石は馬鹿で、わたしもバカ。そういうことだ。

さて明暗だが、これまた登場人物たちは些細なことで争っている。意地と見栄の張り合い。腹の探り合い。文章にするのがむつかしい、形而上的な世界だ。このような人間の深層心理に着目し、文章化できるのは、世界広しといえど漱石くらいだろう。まったく漱石節全開といった感じだ。

しかし従来と少し違うのは、漱石が「女性」の描き込みに力を入れているところ。漱石が小説に描く女性像というのはたいてい決まっていて、美しく知的でお淑やかなザ・レディというのが定番だが、明暗にでてくる女性軍はちょっと違う。エゴ満載。少なくとも大和撫子ではない。

主人公は津田という男だが、自己中心的でごく平凡な人物だ。むしろその細君の方がアタマの回転も速く、行動力もあり、だんぜん生き生きしている。この男は、大志を抱かず、目下の悩みは自分の健康とカネ。そんな凡庸と思われた男が、不倫の関係に突き進むのか否か、というその場面で、漱石、奇しくも逝去。明暗のゆくえは本当に明暗のままで終わってしまった。その後の展開がどちらに転ぶか、まったく見当がつかない。

ここまで中途半端感満載だと、文学作品としての良し悪しは判定不能。しかし、なにせあの漱石の最後の作品だ。漱石節、炸裂。落ち着いて読んでみると、漱石の漱石たる凄味というとか、作家としての成熟度が堪能できる。なるほど、こういうのは漱石にしか書けない。

青空文庫で無料でテキストが配布されているので、わたしのようにパソコン画面上で読んでもいいが、なにしろ長い。目や背骨の疲労が激しく、目にはそうとう悪いのは間違いない。やはり紙の本で読むのが無難だ。

posted by ヒロミシュラン at 12:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心に残る小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする